検証済:(2)資料:「 やまと新聞 VS 国立国会図書館 & wikipedia 」
(嘘)≪
HISTORY OF YAMATO PRESS SINCE 1886.「明治19年創刊 やまと新聞」≫
(正)≪
HISTORY OF YAMATO PRESS SINCE 1932.「昭和07年創刊 やまと新聞」≫

破綻済:
(3)鑑賞:「やまと新聞とねず(きち) の ウソと不思議、そして破綻。」
(絵空事)“GHQの命令⇒国会議事堂内だけで活動⇒戦後63年目の解放”ストーリー。

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やまと新聞
「明治19年創刊 やまと新聞の歴史」

(3)昭和44年7月1日 『帝都日日』から『やまと新聞』へ
http://www.yamatopress.com/history/

(帝都日日新聞 昭和44年6月30日 「改称の社告」)
 社 告
 あす七月一日、一周年を機にやまと新聞と改称します。
 昨年七月一日「株式会社帝都日日新聞社」として新発足、紙面刷新に努力して参りましたが、日本主義を標榜する日刊新聞に課せられた重大使命達成には、ほど遠いものあると痛感、一周年を迎えるに当り、根底より古い殻を打破し、新生面を切り拓くため、題号を本邦新聞界に輝かしい伝統と足跡をもつ「やまと新聞」(日出国新聞)と改称、また新聞社名も「株式会社やまと新聞社」に変更します。
 新しい美酒は新しい革嚢に!心機一転、反体制の革命勢力、体制べったりのの既存勢力いずれにも与みせず、金力、権力、暴力に媚びず、厳正な批判者としての立場を堅持するとともに、国を愛する人々、いいかえれば”やまとごころ”の組織者として再出発することにしました。
 この私どもの微衷をお掬みとり願い、倍旧のご声援をお願いいたします。
                  昭和四十四年六月
                  株式会社 帝都日日新聞
                  取締役相談役  児玉誉士夫
                  代表取締役社長  吉田裕彦
                  代表取締役副社長   筒井弥二郎
昭和三十三年七月二十二日第三種郵便物認可  日曜休刊 昭和三十三年八月八日国鉄特別扱承認第百四十五号 復刊第7582号  帝都日日新聞 皇紀2629年(西暦1969年)・昭和44年6月30日(月曜日)日刊  
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やまと新聞
「靖国神社 遊就館 忘れてはならない心 吾が母への手紙」
http://www.yamatopress.com/c/2/4/1805
(コメント欄)
Nippon  10-02-21 16:04:48
やまと新聞はかって児玉 誉士夫と関係がありましたが、
児玉 誉士夫は任侠団体の稲川会や住吉会と深く関係していました。任侠系右翼団体と現在のやまと新聞とは関係はないのですか?
(編集部)
やまと新聞社と児玉誉士夫の関係はよくわからないというのが実情です。詳細な資料は焚書により手元からは離れてしまいましたし、児玉誉士夫の文字が確認できるのは当時の株主名簿だけです。現実に終戦後のやまと新聞はほんの数名の社員が記事を作り国会内で手配りするのがやっとの状況でしたので、児玉誉士夫の影響など大きな力はないと思います。


その素性を、知っている人は知っています。

おかしな「やまと新聞の回答」ですね。

昭和44年に、GHQの焚書ですか?
当時の株主名簿はあるのに、役員名簿はないのですか?
やまと新聞が、自社の「改称の社告」(昭和44年6月30日号)
を知らない!?
その翌日から連載された特集を紹介しているのに?
“改称記念特集”でしょう?
        ↓
「やまと新聞の足跡」
「やまと新聞」昭和44年7月1日号から7月6日号
(それぞれ国立国会図書館保存)まで
の6回にわたり掲載されていたものです。
http://www.yamatopress.com/history/
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wikipedia「児玉 誉士夫」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB

(抜粋)
児玉 誉士夫は、日本の右翼運動家。CIAエージェントであったとも言われる。
暴力団錦政会(後の稲川会)顧問。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。
60年代初期には15万人以上の会員がいた日本最大の右翼団体全日本愛国者団体会議(全愛会議)を支える指導者の一人であった。
1961年、この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した。
下部組織には住吉会系の元組長や東声会の町井久之が代表を務める組織があった。
60年代終わりには青思研を全愛会議から脱退させた。
新潟県の山中で軍事訓練を行い、児玉は訓練後、「君達各人が一人一殺ではなく一人で百人を殺してくれることを望む」と会員に語った。
青思会は日本最大の行動右翼として児玉に反目する者を恐れさせた。
1967年7月、後に統一教会系の反共団体・国際勝共連合の設立につながる、「第一回アジア反共連盟(世界反共連盟の地域団体)結成準備会」が笹川良一の肝煎りで、・・・児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。
1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社(前身は楠皇道隊)が結成。
これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。
児玉は東京スポーツを所有する他に、
腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった。

児玉誉士夫は右翼やヤクザ組織、政治家との繋がりによる「力」、様々な表、裏の資金源から得る「金」によって日本で最も影響力のある大物フィクサーにのし上がったとされる。(その他重要記載多数。)
※略称「青思研」「青思会」・・・「青思会」が一般的なようです。

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
http://melma.com/backnumber_45206_4135535/
(抜粋)
帝都日々新聞は、野依の死去(昭和43年)にともなって、その後、児玉誉士夫系列の人材が送り込まれ、「やまと新聞」と名前が変わった。
(カッコ内、管理人。)

「本当のことが知りたい!・・・」
http://hon-ga-suki.at.webry.info/200806/article_23.html
(コメ欄)
帝都日々新聞・・・
経営が悪化。
児玉軍団の青思会に身売り児玉氏が以前発行していた「やまと新聞」と改題。
児玉軍団から役員が入り
発行継続。民族派唯一の日刊紙として論陣を張った。
当時、札幌通信部を開設(S45?)・・・編集局長が国民新聞に移り私も自然、退社となりました。
新聞屋 2009/11/13
(カッコ内、管理人)

「児玉誉士夫とは何者であったか 四十九」
http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201008250000/
(抜粋)
ここ(やまと新聞)は野依秀市のやっていた 帝都日日新聞を 児玉軍団で 引き取り 最初は 児玉機関の副機関長だった 吉田彦太郎(改名して裕彦)が 社長をしており 彼の死去 西山幸輝(広喜)が 社長をしており 実質的な 児玉系右翼 青年思想研究会の機関誌(紙)だったところです
(カッコ内、管理人。)

「日本の右翼(40)-フィクサーとしての右翼」
http://blogs.yahoo.co.jp/masahito2117/60289691.html
(抜粋)

児玉誉士夫亡きあと「最後の黒幕」と言われ児玉の仕事を引き継いだようなことをやっていたのが西山広喜だ。
児玉はこの仕事(もみ消し)を西山に任せ(昭和54年)西山は庄司を説得してカネでうまく解決した。
しゃべらないように監視しなければならない。

西山は自分が経営する「やまと新聞」に(庄司を)連れてきた(て)そこにおいておいた。
(カッコ内、管理人。⇒「参考記事」参照。)
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ご立派な社歴!!

「児玉に忠実な日本最大の行動右翼」青思会の実質的な機関紙だった新聞です。
児玉機関の副機関長吉田裕彦(彦太郎)社長
最後のフィクサー西山広喜(幸輝)社長
帝都日日新聞⇒やまと新聞の社長を、児玉グループの重鎮たちに務めさせる
力の入れようでした。

(やまと新聞)
やまと新聞社と児玉誉士夫の関係はよくわからないというのが実情です。
児玉誉士夫の文字が確認できるのは当時の株主名簿だけです。
現実に終戦後のやまと新聞はほんの数名の社員が記事を作り国会内で手配りするのがやっとの状況でしたので、児玉誉士夫の影響など大きな力はないと思います。
(ねず)
一般民間人への報道はいっさい許可しない。
取材は国会議事堂内だけにせよ。新聞紙の発行も、国会議事堂内だけに限定せよ。
それがGHQの命令です。
なんと戦後63年目にして、やっと≪ やまと新聞≫は、 国会議事堂の外での営業活動ができるようになったのです。 

彼らの世界の大恩ある親分衆に対しても、忘恩不遜な嘘に嘘を重ねていますね。
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(参考記事)

「寝る前に一読『亜片王 満州の夜と霧』」

http://blog.goo.ne.jp/buffett7/e/f9ed1bcec10f2aafba51f2ed3e19ae95
(抜粋)
不逞者
周囲からいかに“大物”と見られていたかは、戦後、GHQが、平和に対する罪を裁くA級戦犯として逮捕した民間人第一号が里見(注)だったという事実に端的に語られている。
里見とペルシャ産アヘンの関係については、・・・宏済善堂がペルシャ産アヘンで儲けた利益は約二千万ドルにものぼったこと、・・・
現在の貨幣価値に直すと、30兆円近くにのぼる。
上海に拠点を移した里見の許には、その岩田をはじめ、阿片という蜜に群がる毒蟻のように、いかがわしげな連中ばかりが集まってきた。上海時代に里見と知り合い、“芳名帳”にも連なることになる・・・児玉誉士夫、・・・
吉田裕彦(児玉機関副機関長)といった魑魅魍魎の顔ぶれは、さながら、戦前の上海から戦後日本に延びた地価(下)人脈の様相を呈している。

注)wikipedia「里見甫(はじめ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB
(抜粋)
ジャーナリスト、実業家。関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。中国名李鳴。
1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂の副董事長(事実上の社長)に就任する。
ここで、三井物産・三菱商事・大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇や紅幇などとも連携し、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立。
一方で、青幇の杜月笙・盛文頤や、笹川良一、
児玉誉士夫、・・・らとの地下人脈が形成された。

補)
wikipedia「児玉誉士夫」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB
(抜粋)
1939年、外務省情報部の懇意の笹川良一
の紹介で採用され、海軍航空本部の嘱託となった。
上海に「児玉機関
と呼ばれる店を出した。
戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。
部下には副機関長となった吉田彦太郎・・・・・ら右翼
の無法者がそろった。
児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナ
など1億7500万ドル相当の資金を有するにいたったと言われている。
アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。ヘロインの取引の仲介もやっていたという。
児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎
のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。

wikipedia「西山広喜」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%BA%83%E5%96%9C
(抜粋)
伊藤忠商事、野村證券、ヤクルト本社のトラブルに暗躍。
総会屋で『現代の眼』主幹だった木島力也とは刎頚の友であり、児玉誉士夫や広域暴力団ともつながりがあった。

「日本の右翼(40)-フィクサーとしての右翼」
http://blogs.yahoo.co.jp/masahito2117/60289691.html
(抜粋)
彼(西山広喜)は戦後の大物右翼と言われ「室町将軍」と異名をとった三浦義一に師事した。
この三浦の片腕として西山は力をつけやがて児玉誉士夫の代理人のようなことまでやるようになった。
当時、伊藤忠には防衛商戦で必要な人材として防衛庁の職員をスカウトしていた。その中に庄司春男という男(元航空自衛隊幹部)がいた。
彼は「参院選に出馬するから資金を出してくれ」と言って伊藤忠商事を脅しにかかった。断られると第二次FX選定の内幕を暴露する記事を雑誌に発表した(昭和54年)。

慌てた伊藤忠は瀬島(龍三、伊藤忠会長/元大本営作戦参謀・関東軍参謀)を通して児玉誉士夫にこのもみ消しを依頼した。
児玉はこの仕事を西山に任せ西山は庄司を説得してカネでうまく解決した。
これで西山の評価はぐっと高まった。
大金をもらうがもししゃべったらいのちはないぐらいの気にさせないとできないことだ。
しゃべらないように監視しなければならない。
西山は自分が経営する「やまと新聞」に(庄司を)連れてきた(て)そこにおいておいた。
西山はこのようにして児玉を継ぐフィクサーとして暗躍するが2005年(平成17年)病死する。
(カッコ内、管理人。)
参)沈黙のファイル「瀬島龍三とは何だったのか」http://www5.ocn.ne.jp/~iranka/sekona.html

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補足(3)鑑賞:「やまと新聞とねず(きち) の ウソと不思議、そして破綻」の続き。
「改称の社告」の「昭和三十三年七月二十二日第三種郵便物認可」について。

wikipedia「第三種郵便物」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%A8%AE%E9%83%B5%E4%BE%BF%E7%89%A9
(抜粋)
定期刊行物の郵送料を安くして、購入者の負担を減らすことで入手の便を図り・・・
認可・利用の要件
1.毎年一回以上の回数で・・・定期に発行するものであること。
3.
・・・あまねく発売されるものであること。

帝都日日新聞の復刊(昭和33年7月19日)後、すぐ(22日)
に認可が降りています。
「国会内だけで発行する」のなら、不要なサービスですし、要件も満たしていません。
またまた事実が、作り話の絵空事を浮き彫りにしています。